社号 | 率川神社 |
読み | いさがわ |
通称 | 子守明神 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県奈良市本子守町 |
旧国郡 | 大和国添上郡奈良町 |
御祭神 | 媛蹈韛五十鈴姫命、狭井大神 、玉櫛姫命 |
社格 | 式内社、大神神社摂社 |
例祭 | 6月17日 |
率川神社の概要
奈良県奈良市本子守町に鎮座する式内社であり、桜井市三輪に鎮座する大神神社の境外摂社です
社伝によれば、推古天皇の御代、大三輪君白堤という人物が勅命により春日邑率川に社殿を建てて祀ったのが当社の創建であると伝えられ、奈良市最古の神社とも言われています。
古くから大神神社と深い関係にあったようで、社伝に登場する大三輪君白堤は大田田根子の子孫で大神神社の神官を務めた氏族です。
御祭神の「媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)」とは神武天皇の皇后で、『古事記』によれば大神神社の祭神である大物主神と三嶋湟咋の娘である勢夜陀多良比売が結婚して生まれた娘であるとしています。
同じく御祭神の「狭井大神」は媛蹈韛五十鈴姫命の父神である大物主神の荒魂であり、狭井神社の神と同神と考えられます。大物主神でなくその荒魂である狭井大神を祀るのは、『古事記』に姫蹈鞴五十鈴姫の家が狭井河の上にあることが記されており狭井との関係を踏まえたことによると考えられます。
また「玉櫛姫命」は媛蹈韛五十鈴姫命の母神で、勢夜陀多良比売と同神とされています。
ただし当社の祭神については古くから諸説あったようで、当初からの祭神であったかはやや疑問があります。
中世以降は「子守明神」とも呼ばれるようになりましたが、これも由来は不明です。神社の説明では父母神が両側から子神を守るように祀っていることからそう呼ばれるとしています。
いずれにせよ古くは大神神社と関係の深い神社でしたが、平安末期の南都焼討で社殿が焼失したと言われ、それ以降は春日若宮の神官や興福寺によって管理され、近世には春日大社の所属となっていました。
由緒を見れば大神神社、中世以降の歴史を見れば春日大社との関係が深く、このために明治年間に大神神社と春日大社の間で所属の論争が発生しましたが、明治十年(1877年)に大神神社の摂社とすることで決着しました。
なお、「率川(いさがわ)」とは春日山を水源として当社の南方を西へ流れ佐保川に合流する川で、「子守川」とも称します。現在はほぼ暗渠化しているため残念ながら確認することはできません。
率川阿波神社
率川神社の境内に鎮座する末社で、式内社です。御祭神は「事代主神」。エビス神として信仰されています。
社伝によれば、宝亀二年(771年)に大納言藤原是公の夢に「我は狭井御子神である。お前の氏神の神建布都神と共に阿波国に住んでいるが、今皇孫命の招集により神建布都神と共に都にいる。神建布都神は御笠山に、我は率川の辺に住みたいと思うので祀れ」と告げられたので、社殿を建て、阿波国から勧請して祀ったと伝えています。
このように狭井御子神と名乗る神を阿波国から勧請したとあるものの、阿波国にこの神を祀る神社はなく、また桜井市三輪の狭井神社にも阿波との関連性を示す資料はありません。
御祭神である事代主神は『日本書紀』では媛蹈韛五十鈴姫命の父神となっており、この点は『古事記』の大物主神に対応する神となります。
しかし『古事記』では事代主神は大国主神の子であるとしており、一般には大国主神と大物主神は同神と解されています。社伝に「狭井御子神」と名乗っているのはこれによるものと思われます。
一方で社伝に藤原氏の人物が登場し、また祭神が藤原氏の神である神建布都神と共に行動していることから、藤原氏との関係が深かったことが示されています。
当初大神神社との関係の深かった率川神社とは異なり、当社は最初から春日大社と関係が深かったことが窺えます。
元は現在地の南方200mほどの西城戸町に鎮座していましたが、中世の戦乱により甚だしく廃れ人家の裏で松の木一本を神木として細々と祀っていたと言われています。
明治年間に小祠が復興され、大正九年(1920年)に現在地である率川神社境内に遷座しました。
三枝祭(さいぐさまつり)
毎年6月17日に行われる率川神社の例祭で「ゆり祭り」の名でも知られています。
罇(そん)と呼ばれる酒樽に白酒(しらき:清酒)を、缶(ほとぎ)と呼ばれる酒樽に黒酒(くろき:濁酒)を入れ、その周りを百合の茎で囲って花を飾り、折櫃に神饌を納めて神前に供えるもので、古式を残した神事です。
令義解にもこの神事が記されており、非常に古くから行われていたことが知られています。
大神神社・狭井神社で行われる鎮花祭に関連する神事と考えられ、春先に疫病を退散させる鎮花祭に対し、初夏において疫病を退散させるのが三枝祭と考えられます。
先述の『古事記』の姫蹈鞴五十鈴姫の家が狭井河の上にあるとする記事において、その河をサヰ河と呼ぶのは、その河の辺りにヤマユリ草が多く生えており、ヤマユリ草は元はサヰと呼んだためと記されています。このヤマユリの古称サヰに因み三枝(さいぐさ)と呼ばれるようになったとも言われています。
鎮花祭でも百合根が用いられることから、大神神社の古い信仰において百合は疫病を退散させる力を持つ植物と見なされていたのかもしれません。
境内の様子
当社入口は近鉄奈良駅南方、やすらぎの道に東面しており、注連柱と朱塗りの両部鳥居が建っています。
鳥居をくぐって前方、境内南西側に手水舎があります。
鳥居をくぐって右側(北側)に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺・平入入母屋造。桁行五間・奥行二間の建築でガラス張りの引き戸の設けられた建築です。
拝殿の後方、塀に囲われて檜皮葺の一間社春日造の本殿が三棟並んでいます。
いずれも朱が施され、三棟は障屏で繋がっています。江戸時代初期の建築と考えられ、奈良県指定有形文化財となっています。
中殿に「媛蹈韛五十鈴姫命」、左殿に「狭井大神」、右殿に「玉櫛姫命」を祀っています。
本社本殿の右側(東側)に朱塗りの鳥居と瑞垣で囲われた空間があり、その内側に三社の境内社が南向きに建っています。
三社の内、中央に鎮座するのは式内社の「率川阿波神社」。御祭神は「事代主神」。
社殿は住吉造に似た妻入の切妻造。
詳細は上記概要をご参照ください。
案内板
摂社 率川阿波神社
率川阿波神社の左側(西側)に「住吉社」が鎮座。御祭神は「上筒男命」「中筒男命」「底筒男命」「氣長帯比売命」。
社殿は春日見世棚造。
案内板
末社 住吉社
率川阿波神社の右側(東側)に「春日社」が鎮座。御祭神は「武甕槌命」「経津主命」「天児屋根命」「比売神」。
社殿は春日見世棚造。
案内板
末社 春日社
境内の南側、手水舎の東側に「蛙石」なる岩石が安置されています。
その形状から蛙石と呼ばれており、「かえる」に掛けて「無事帰る」「若返る」などの祈願を込め、「撫で蛙」と称して石を撫でる風習があるようです。
古いものなのか、当初から当社にあったものなのかは不明。
案内板
蛙石


御朱印
由緒
案内板
率川神社(子守明神)
地図
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