| 社号 | 鴨高田神社 |
| 読み | かもたかだ |
| 通称 | |
| 旧呼称 | 八幡宮 等 |
| 鎮座地 | 大阪府東大阪市高井田元町 |
| 旧国郡 | 河内国若江郡高井田村 |
| 御祭神 | 速須佐之男命、大鴨積命、神功皇后、応神天皇 |
| 社格 | 式内社、旧郷社 |
| 例祭 | 7月17日、10月17日 |
鴨高田神社の概要
大阪府東大阪市高井田元町に鎮座する式内社です。
社伝によれば、白鳳二年(673年)に創建と伝えられ、「賀茂(鴨)氏」が祖神を祀ったとされています。
「賀茂氏」にはいくつかの系統がありますが、当社は「大鴨積(オオカモツミ)命」を祀っており、この子孫である地祇系の「賀茂氏」に関わるとしています。
「オオカモツミ」はオオクニヌシの子である「オオタタネコ」の孫で、奈良県の葛城地域を拠点とし「高鴨神社」や「鴨都波神社」等を奉斎した地祇系「賀茂氏」の祖です。この氏族は奈良県桜井市三輪に鎮座する「大神神社」の祭祀氏族「三輪氏」と同系統ともされています。
これに対して山城国葛野郡(現在の京都府京都市)を拠点とし「賀茂別雷神社」「賀茂御祖神社」などを奉斎した氏族も「賀茂氏」を名乗っていました。この氏族は上記の地祇系「賀茂氏」と同族とする説、別系統とする説の両方がありますが、記録上の系譜ではこちらは天神系であり別系統となっています。
ただし、いずれの「賀茂氏」も『新撰姓氏録』の河内国には見えず、未定雑姓として崇神天皇の後裔であるという「鴨部」が登載されているのみです。この氏族は上の二氏とは全く異なる系統の「賀茂(鴨)氏」となります。
とはいえ河内国の式内社には他にも「鴨神社」(八尾市西高安町に跡地あり)、「鴨習太神社」(大阪府河南町神山に鎮座)があり、いずれの系統かは不明ながら当地を含め河内国の各地に「賀茂氏」が居住していたことが考えられます。
また或いはこれらの神社は当社との関係性も考えられるかもしれません。
一方、中世には当地は「石清水八幡宮」(京都府八幡市に鎮座)の荘園となり、当社もいつしか「八幡宮」と呼ばれるようになりました。現在も「八幡宮」と刻まれた灯籠が境内に見られます。
なお『延喜式』神名帳には当社は渋川郡とありますが、江戸時代には当地は若江郡に属していました。
渋川郡と若江郡は旧大和川を境界としていたので、流路が変わったか、水害等で村の移転があったのかもしれません。
いずれにしても当地は旧大和川が河内湖へ注ぐ低地だったと思われます。
想像を逞しくすれば、地祇系「賀茂氏」の拠点のある大和葛城から葛城川・大和川を伝って草香江(古代河内湖)とを結ぶ交通網が形成されていた可能性も考えられるかもしれません。
境内の様子

当社は河内永和駅のすぐ近くの住宅地に鎮座しています。
境内は玉垣で囲われ、境内南側の入口に鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。鳥居から社殿までまっすぐ参道が伸び、左右に灯籠が並んでいます。
古い灯籠にはかつての呼称である「八幡宮」と刻まれたものも。
参道途中の右手(東側)に手水舎があります。


参道の正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に大きな千鳥破風と向拝の付いたもの。

拝殿後方、瑞垣内に木々に囲まれてやや見えにくいですが、本殿は銅板葺の流造です。

境内の奥(北側)に金網で囲まれた池があり、その中の島に「水神社」が東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の一間社流造。
社殿前の参道左手(西側)に「戎神」の石像が祀られています。
大きな鯛を持ったふくよかな姿で、ちょっと珍しいもののように感じます。
街中の神社ながら境内は鬱蒼としており、大きなクスノキも見られます。
これとは別に、かつて本社拝殿の西側に「お駒樟」と呼ばれる樹齢一千年とも言われたクスノキがあったといい、お駒狐が棲息していたとか、お駒という女性がこのクスノキに呪詛を込めて釘を打ち込んだとかいった伝承があったようです。

境内の西方に道路を挟んで飛び地境内のような空間があり、鳥居をくぐった先に「稲荷社」が東向きに鎮座しています。
朱鳥居の奥、柵で囲われた中に鎮座しており、自然石を組んだ石塚のような形ですが、扉があり石祠となっているようです。
当社の北方に「長栄寺」があり、かつて当社はこの寺院の鎮守だったとされています。
長栄寺は聖徳太子の開基と伝えられているものの長らく荒廃していたようで、江戸時代中期の寛延年間に「慈雲」なる僧によって再興されました。
本堂に安置されている秘仏の十一面観音像は平安時代の作とされ、大阪府指定文化財となっています。
案内板
長栄寺 木造十一面観音立像
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平安時代後期の作とされる高さ106.6cmの檜材一木造の直立像で、普段は本堂の厨子内に秘仏としてまつられています。片脚を遊ばせ、腰をひねること通例の像容であり、左手に宝瓶、右手に錫杖を執るいわゆる長谷寺式の十一面観音像です。ところどころに顔料が残ることから、元来は彩色であったと認められますが、ほとんど剥落し、衣紋の隅に僅かな胡粉の色を留めるばかりです。像体は風化し、素地の木目があらわれています。つけ加えられた台座、光背などからみると、江戸時代に修理が行なわれたものと思われます。その際に、頭部および衣紋以外の身部を整え、これを漆塗りとするとともに、顔面では胡粉で両眼白毫を、丹塗りで口唇を彩っています。化仏の全てと持物の宝瓶や台座、光背などは後に補われたものです。
頭部と衣紋の表現に藤原時代をよく残すことから、昭和45年2月、大阪府の文化財(彫刻)に指定されました。
平成13年3月 東大阪市

タマ姫
河内にはいくつか「鴨」って付く式内社があるみたいだね。やっぱり関係あるのかな?
どうかしらね。何とも言えないけれど、賀茂氏の本拠地である奈良県の葛城地方との結びつきが考えられるかもしれないわ。

トヨ姫
由緒
石碑
当社由緒略記
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東大阪市高井田一二八〇番地
延喜式内社 鴨高田神社
一、御祭神
速須佐之男命(素盞鳴命)
大鴨積命(大賀茂都美命)
神功皇后(息長足姫命)
応神天皇(品陀別命)
一、例祭日
夏祭 七月十七日
秋祭 十月十七日
一、由緒略記
当社は延喜式内社で延喜神名帳によれば渋川郡六座の筆頭に位置する官幣小社であった。
当社の創建は往古鴨氏が居住してその祖神を祀ったに始まり社名はそれに由来すると言はれていて遠く白鳳二年(673年)と伝へられる。
中世に至り石清水文書保元三年(1158年)官宣旨には石清水八幡領として河内国高井田の庄の名が見えており、後「河内誌」には当社について「在高井田村今若江郡也山州八幡神祭料因稱八幡宮」と記し当社が石清水八幡宮領となり八幡宮と稱されたる由縁である。この附近一帯が戦場となった大阪夏の陣元和元年(1615年)兵火に罹り社殿ことごとく烏有に帰し後数年を経て再建されている。
「河内名所図絵」に当社の隣長栄寺の鎮守となり今八幡と稱するとある。
祭神については「神名帳考証」は大鴨積命なりと記し「大阪府全誌」「大阪府史蹟名勝天然記念物」には素盞鳴命であるとしている。
明治元年(1868年)神仏分離後明治五年(1872年)郷社に列せられ明治五年(1872年)三月西高井田品陀別命並びに五月十三日に新喜多山科神社を合祀し明治十四年(1880年)社殿及び拝殿を新築し明治四十年(1906年)一月神饌幣帛料供進社に指定された。更に明治四十年四月五日高井田字北ノ町「品陀別命」を合祀し現在に至っている。
又社記によれば後醍醐天皇の延喜十八年(916年)当地方大洪水にて五穀稔らず諸民当社に祈願をこめて霊験あり百姓大いに喜べりとある。又安永年間(1772~1780年)悪疫流行するや時の神職久左衛門一月九日より十日間断食して悪疫祓除の祈祷を執行し全村その厄をまぬがれたとある。
境内は約千四百坪、本殿拝殿神饌所宝庫手洗所社務所を有し末社には水神社鴨稲荷社鴨戎社がある。
なお拝殿西側にある樟は樹齢約一千年と言はれるが今は枯死して幹が少し残っている程度である通称「お駒樟」昔お駒狐が棲息したりと又お駒なる女性がこの木に呪詛の釘を打込み願が叶へられたによりこの名ありと伝へられる。
昭和三十八年七月十八日未明本殿檜皮葺屋根花火による失火にて半焼し直に銅板にて葺替修理した。
昭和五十九年十月吉日
鴨高田神社
案内板
鴨高田神社
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平安時代『延喜式』にのせられた古社で、『大阪府全誌』には速須佐之男命、社の由緒書には大鴨積命、神功皇后、応神天皇を加えた4神を祭神としています。別名「八幡社」とも言われていましたが、これは保元三年(1158)銘の「石清水八幡宮文書」に、「河内国高井田庄」の名がみえることに由来すると考えられます。しかし、大坂夏の陣によって社殿がことごとく焼失し、その後数年をかけて再建されたといわれています。当神社には、神事に参加する村人たちによって宮座が構成されており、戦前まで久左衛門講・信座講・灯明講の3つの宮座がありました。
境内には、「八幡宮 高井田村」と刻む享保十三年(1728)銘の石燈籠一対や「常夜燈八幡宮御宮前」の文字を縁どりで彫る安永三年(1774)銘の石燈籠、「河州新喜多新田」の名を刻む寛保二年(1742年)銘の石燈籠、寛政九年(1797年)銘の狛犬一対など多数の石造物が残されています。
平成15年3月 東大阪市
『河内名所図会』
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鴨高田神社
高井田長栄寺の鎮守とす。今八幡と称してこの村の生土神なり。延喜式出。例祭九月十八日。この寺久しく廃寺とせしを寛延年中葛城慈雲和上の建立なり。
地図
大阪府東大阪市高井田元町