社号 | 阿麻美許曽神社 |
読み | あまみこそ |
通称 | |
旧呼称 | 阿麻岐志の宮、牛頭天皇 等 |
鎮座地 | 大阪府大阪市東住吉区矢田 |
旧国郡 | 河内国丹北郡枯木村 |
御祭神 | 素盞嗚命、天児屋根命、事代主命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月16日 |
阿麻美許曽神社の概要
大阪府大阪市東住吉区矢田に鎮座する式内社です。
社伝によれば大同年間(806年~809年)の創建と伝えられますが、その他の由緒については詳らかでありません。また、どのような氏族が奉斎したかについても全く不明です。
当社の奉斎氏族については次のような説があります。
- 当社を中臣氏の神社とし、祖神アメノコヤネの後裔である大小橋(オオバセ)命の子「阿摩比古(アマヒコ)命」を祀った。
- 当地は「依羅氏」の支配した地であったためこの氏族が祖神を祀った。「依羅氏」は複数の系統があるが、特に『新撰姓氏録』河内国諸蕃の「依羅連」は「素祢志“夜麻美”乃君より出る」とあり、社名「阿麻美」の由来となった可能性がある。
- 当社を「凡河内氏」が祖神を祀ったものとし、天見丘に葬られたという「彦己曽保理命」を祀った。
このように大きく分けて三つの説がありますが、いずれも推測の域を出ません。
ただ、1.については近隣の東住吉区住道矢田に「中臣須牟地神社」が、2.については同様に近隣の住吉区庭井に「大依羅神社」鎮座していることから、中臣氏・依羅氏のいずれもが当地にも居住していた可能性があり、両説いずれであってもおかしくないでしょう。
3.に関しては凡河内氏が当地に居住していた痕跡は特に見当たらず、また「彦己曽保理命」が天見丘に葬られた旨は『式内社調査報告』の引く『河内国式神私考』に『先代旧事本紀』に云う、とありますが『先代旧事本紀』に当該の描写は無く、出所が不明であり他の二説と比べれば説得力の低い説と言わざるを得ません。
一方、社名の「許曽(コソ)」とは「社」「森」などを表す語で、朝鮮半島由来とも言われています。
同様に「コソ」と付く近隣の式内社に、東成区東小橋に鎮座する「比売許曽神社」や東大阪市長瀬町に鎮座する「波牟許曽神社」等があり、或いは朝鮮半島と関わりの深い人々が居住していたのかもしれません。
当社は江戸時代には「阿麻岐志(アマキシ)の宮」と呼ばれ、この社名は恐らく「阿麻美許曽」が転訛したものだったのでしょう。
当時は「牛頭天王」を主祭神とし、東に「春日神」を、西に「蛭子神」を配祀していたことが『河内名所図会』に見えます。
明治の神仏分離により牛頭天王が同格の神道の神である「素盞嗚命」に替えて祀られた他は現在も江戸時代の神々を踏襲して祀っているようです。
当社鎮座地の旧村の枯木村は江戸時代の大和川の付け替えにより分断されましたが、それでも尚氏子だったようで、その名残か現代でも当社周辺は大和川の南にありながら大阪市に属しています。
当社の南に伸びる道路は当社の参道で、この道が大阪市域として細長く伸びていることは地図マニアの人々によく知られています。
境内の様子
境内入口。鳥居が南向きに建ち、その後方に本瓦葺の平入切妻造の神門が建っています。
神門の形式は神社としては珍しい薬医門で、かつてあった神宮寺の山門だったと言われています。
神門をくぐると舗装された参道が社殿まで真っすぐ伸び、途中右側(東側)にあるひときわ大きなクスノキが目に飛び込んできます。
参道途中の右側(東側)に手水舎があります。
参道の正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に軒唐破風の付いたもので、割拝殿形式となっています。
拝殿前に注連柱が建っているのも特徴。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製で、かつて当社にあった神宮寺の僧が文化四年(1807年)に奉納したものです。
拝殿後方に建つ本殿はよく見えませんが、銅板葺の流造に三つの千鳥破風(?)が付いているのでしょうか。
本社社殿の右側に「稲荷神社」が南向きに鎮座。
三基の朱鳥居が並び、奥に銅板葺の妻入入母屋造(背後は切妻造)の社殿が建っています。
稲荷神社の手前(南側)、参道の右側(北側)に「天照皇大神社」が西向きに鎮座。
社殿は銅板葺の神明造。
天照皇大神社の右側(南側)に隣接して、何やら石が祀られています。
鳥居の額束に「神武天皇□□所」と刻まれてあるものの詳細不明。遥拝所でしょうか。
さらに右側(南側)に隣接して「今刀比羅宮」が西向きに鎮座。
社殿は銅板葺の流見世棚造。
境内には三本の大きなクスノキがあり、御神木となっています。境内参道途中、東参道、境内南東隅にそれぞれ一本ずつあります。
境内南東隅のクスノキの傍らに「素釜三寶荒神社」が西向きに鎮座。何故か狛蛙が配置されています。
クスノキと共に玉垣に囲まれ、中に鳥居が建ち、奥の覆屋に銅板葺の流見世棚造の社殿が納められています。
当地付近に行基が居住していたという伝承があり、境内には「行基菩薩安住之地」と刻まれた石碑があります。
このことに因み、当社の北西にある大和川を渡る橋は「行基大橋」と名付けられています。
境内にはささやかながら梅の花が彩を添えていました。
さて、当社付近を地図で見てみると、大阪市が当社の南で異様に細長く突き出てることがわかります。
この細長く突き出た大阪市域はかつての当社の参道で、およそ600mも続いています。
当社の鎮座した旧・枯木村が後に大阪市に編入され、その周辺が松原市に編入された結果、当社の参道だった道路が大阪市となり、松原市に挟まれた形になっています。
珍しい境界として地図マニアの間ではよく知られています。
御朱印
由緒
案内板
阿麻美許曽神社
『河内名所図会』
地図