社号 | 坐摩神社 |
読み | いかすり/ざま |
通称 | ざまさん 等 |
旧呼称 | 難波大社 等 |
鎮座地 | 大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺 |
旧国郡 | 摂津国大坂南渡辺町 |
御祭神 | 生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神 |
社格 | 式内社、旧官幣中社、摂津国一宮 |
例祭 | 4月22日 |
坐摩神社の概要
大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳に大社とあり、また住吉大社と共に摂津国一宮でもあり、古くから有力な神社でした。
また『住吉大社神代記』(住吉大社に伝わる古典籍)には子神として「座摩神(爲婆照神)」が見え、古くから住吉大社とも関係が深かったことが伺えます。
当社は元は上町台地の北西麓にあたる渡辺、現在の大阪市中央区石町(こくまち)の地に鎮座していたと言われ、現在も旧地には当社の「行宮」が鎮座しています。
社伝によれば、当社は神功皇后が三韓征伐の帰途、淀川河口南岸の大江の岸・田蓑島の地に神を祀ったと伝えています。
社伝のいう田蓑島とは後の渡辺、石町の地で、先述の行宮の地です。船からこの地に上陸した神功皇后はここで休息し、この際に座ったとされる石が現在も「鎮座石」として行宮に安置されています。
この旧地は渡辺津、或いは窪津と呼ばれ、後世には八間家と呼ばれることになる地であり、古代から一貫して水運の拠点となった地です。
平安時代後期には源綱が当地付近に住んで渡辺と名乗り、渡辺党と呼ばれる水軍を組織して瀬戸内海を統括しました。
これほどまでに海運上の拠点性の高い地に当社が鎮座していたことになります。
その後、豊臣秀吉が大坂城を築くにあたり、天正十一年(1583年)に渡辺の地から南西1.6km離れた現在地に遷座されました。
現在地はまさに大坂の中心とも言うべき地で、多くの商店や家屋が並び、『摂津名所図会』の挿絵には建物の建ち並ぶ街中に当社の境内がある様子が描かれています。
さて、当社の御祭神は「生井(いくい)神」「福井(さくい)神」「綱長井(つながい)神」「波比岐(はひき)神」「阿須波(あすは)神」で、この五柱を併せて「坐摩神」と呼ばれています。
この五柱は『延喜式』神名帳の宮中神、神祇官西院に祀られる神としても記載されています。京都府京都市上京区の「福長神社」が坐摩神の祭祀を継承している神社として祀っている他、大阪府岸和田市積川町に鎮座する「積川神社」でも同神を祀っています。
この五柱が如何なる神であるかははっきりしません。「生井神」「福井神」「綱長井神」はそれぞれ「井」が付くことから水に関する神ともいい、「波比岐神」「阿須波神」は諸説あるものの土地の神・家屋の神であるとも言われています。
『古語拾遺』には坐摩神について、神武天皇が即位の際に天照大神と高皇産霊神の神勅を受けて祀った神々の一つで、「大宮所の霊」であり「今、坐摩巫の奉斎するところ」であると記載されています。「大宮所の霊」とは特に宮中で祀ることを示したものと思われます。
また『延喜式』臨時祭には「座摩巫」についての記載があり、都下(つげ)国造氏の童女七歳を充てることが記されています。
「都下(都祁/闘鶏)国造」は『新撰姓氏録』に記載が無いため詳細が不明な部分も多いものの、神八井耳命の子孫とされ、大和国山辺郡都祁(現在の奈良県奈良市の山間部にある都祁・針付近)を本貫としたようで、大和高原の冷涼な気候を生かして氷室の管理に携わったとも言われています。
一方で現在の大阪市内にも拠点があったとも言われ、大阪市北区兎我野(とがの)町はその痕跡であるとする説もあります。
このように都下国造氏の子女が「坐摩巫」として坐摩神の祭祀に奉仕したことが見えますが、そのような例となった経緯ははっきりしません。
ツゲを朝鮮語の日の出を意味する語に関係するとして日の神の祭祀であるとする説もあるものの、特に有力な根拠は無さそうです。
ただ、旧地の立地を思えば、かつて上町台地の上(現在の大阪城の地)に鎮座していた「生國魂神社」に対して上町台地の麓に鎮座していた当社という対比が見て取れます。
高台と低地の両面から二社態勢で祭祀を行ったことが想定され、生國魂神社と共に大阪の古代の祭祀を担う一画として重要な地位にあった神社だったことが伺われます。
境内の様子
境内入口。境内はビル群の建ち並ぶ都会の中にあり、真宗大谷派の難波別院(南御堂)のすぐ西側に立地しています。
鳥居は東向きに建ち、鳥居の左右それぞれに小型の鳥居が接続した「三ツ鳥居」となっています。
『摂津名所図会』の挿絵にはごく一般的な明神鳥居が描かれているため、三ツ鳥居が採用されたのはそう古くない時代のことでしょう。
鳥居をくぐって左右には備前焼の狛犬が配置されています。
鳥居をくぐって左側(南側)に手水舎があります。手水に手を差し出すとセンサーが反応して自動で水が出るタイプ。
なお、奥の建物は社務所兼大阪府神社庁です。
境内は玉砂利に石畳が敷かれており、正面に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿はRC造で銅板葺・平入入母屋造に唐破風の向拝が付いたもの。
『摂津名所図会』では平入切妻造に千鳥破風と唐破風の付いた拝殿が描かれています。
本殿はRC造の銅板葺・平入入母屋造。
社殿は昭和九年の室戸台風、及び昭和二十年の戦災の被害に遭っており、現在の社殿は昭和三十四年(1959年)にRC造で再建されたものです。
なお、昭和九年以前は五柱別棟の春日造だったと伝えられていますが、『摂津名所図会』の挿絵には住吉造のような奥行きの長い妻入の切妻造が描かれており、比較的短期間で本殿の形式がころころ変わっていたことが伺えます。
当社の神紋は珍しい「白鷺紋」です。
神功皇后が当社を旧地に創建した際、神の教えにより白鷺の多く集まる地を選んだことに因むと言われています。
境内の北側には五社の境内社が南向きに並んで鎮座しており、長い平入切妻造の拝所を共有しています。
この中で最も奥側(西側)に鎮座するのは「大江神社」。
五社の中で唯一RC造の流造であり、一回り規模の大きな社殿となっています。
当社の旧地を大江の岸と呼んだことからこれと関係があると思われますが詳細不明。
大江神社の右側(東側)に「繊維神社」が鎮座。
繊維問屋から厚い崇敬を受けているようです。
五社の内、大江神社を除く四社はこのように同規模の一間社春日造となっています。
繊維神社の右側(東側)には「大國主神社」が鎮座。
大國主神社の右側には「天満宮」が鎮座。
天満宮の右側(東側)に「相殿神社」が鎮座。
複数の神社がここに相殿として祀られているものと思われますが詳細不明。
本社社殿の左側から境内の奥へ抜けていくと、境内の南西側に「陶器神社」が西向きに建っています。御祭神は「大陶祇神」「迦具突智神」。社殿はRC造で銅板葺一間社流造に向拝の付いたもの。
社殿の両側には陶器の神社らしく陶製の立派な灯籠が配置されています。
元は靱南町(靭公園の近く?)にあった地蔵菩薩を祀る神社(お堂?)だったようで、周囲の陶磁器の問屋からの崇敬を集めていましたが、明治四十年に市電敷設のために当社に合祀したようです。
社殿に掲げられてる大皿に書かれた由緒の文意がイマイチ汲み取れませんが、昭和二十年の戦災の後は当社を離れて西横堀浜筋を再建したものの、阪神高速道路の敷設のために昭和四十六年に再度当社境内に遷座したようです。
現在も大阪の瀬戸物問屋から信仰されており、陶器神社では毎年七月下旬に瀬戸物(陶磁器)を商う「せともの祭」が行われています。
大皿
火防 陶器神社
陶器神社の右側(南側)に隣接して「稲荷神社」が鎮座しています。
流造の左右両側に裳階の付いた変わった建築です。
当社は江戸時代以降は大坂の町中にあり、大阪の町民の憩いの場として店や小屋などが設けられ、当社を中心に上方の文化が大いに発展しました。
中でも落語は当社の境内に寄席を建てて多くの人に親しまれ、現代にまで続く落語の基礎を築き上げました。
境内の隅にはこのことを顕彰する石碑が建てられています。
石碑
上方落語寄席発祥の地
当社は無機質なオフィス街の中にありますが、毎年梅雨頃には紫陽花の鉢が並べられ、境内を綺麗な花が彩ります。場所柄、当社を訪れる人々はスーツを着たビジネスマンが多く、忙しく働く彼らにひと時の癒しをもたらしてくれる神社となっています。


御朱印
由緒
由緒書
坐摩神社御由緒略記
『摂津名所図会』
地図
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