社号 | 住吉大社 |
読み | すみよし |
通称 | 住吉さん |
旧呼称 | 住吉四社大明神 等 |
鎮座地 | 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 |
旧国郡 | 摂津国住吉郡住吉村 |
御祭神 | 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后 |
社格 | 式内社、摂津国一宮、二十二社、旧官幣大社、別表神社 |
例祭 | 7月31日(住吉祭) |
住吉大社の概要
大阪府大阪市住吉区住吉2丁目に鎮座する神社です。
式内社(名神大社)であるのは勿論のこと、摂津国一宮で、かつ戦前には官幣大社にも列せられた神社であり、大阪府内のみならず全国的にも名の知れた大きな神社です。
『日本書紀』に見る住吉三神
当社の御祭神である「底筒男(そこつつのお)命」「中筒男(なかつつのお)命」「表筒男(うわつつのお)命」の三柱は、日本神話では黄泉国から戻ってきたイザナギが禊をした際に海神三神(底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神)と共に生まれてきたことが記され、底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱は『日本書紀』では「住吉大神」、『古事記』では「墨江の三前の大神」であるとしています。(以下、当記事では「住吉三神」と表記)
この住吉三神の事跡は『日本書紀』の仲哀天皇紀や神功皇后紀に描写されています。まず仲哀天皇八年九月五日条から神功皇后摂政前紀にかけて次のように記しています。
- 仲哀天皇が熊襲を討つことを臣下に相談したところ、神功皇后に神託があり、「熊襲の地は荒れて痩せているので討つべきでない。しかし海上に金銀や彩色などの沢山ある新羅という国がある。もし我を祀ればきっとその国は服従し、熊襲も従うだろう」と教えた。
- しかし仲哀天皇はこれを疑い、神託に従わず熊襲を討とうとしたが勝てなかった。
- 翌年、仲哀天皇は急に病気になり翌日に崩御した。
- 神功皇后はこの神の託宣に従うべく自ら神主となり、この神の正体を確かめると「五十鈴宫にいる撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」「尾田の吾田節の淡郡にいる神」「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」「表筒男・中筒男・底筒男」と複数の神々の名が示された(一書では住吉の神名のみを名乗る)。
このように九州の熊襲を討とうとした際に神託があり、この託宣の主に住吉三神が含まれています。これらの神々は天皇らの為すべき行動を助言しつつも、それに従わなければ祟りを引き起こす恐ろしい存在としても描かれています。
この後、神功皇后は一旦熊襲を平定した後に渡海して新羅を攻め(いわゆる三韓征伐)、そこからの帰国の際にも住吉三神が登場します。
まず神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十二月十四日の記事に、表筒男・中筒男・底筒男の三神から「我が荒魂を“穴門山田邑”に祀れ」と託宣があり、そのようにしたと記しています。これは山口県下関市一の宮住吉に鎮座する「住吉神社」の創建由緒となっており、「穴門山田邑」もその地とされています。
そしてその後、神功皇后摂政元年二月の条には次のように記しています。
- 神功皇后の新羅からの凱旋の際、忍熊王が叛乱したため難波へ向かおうとしたが、船が海上でくるくると回って進むことができなくなった。
- そこで務古水門(武庫の港:現在の西宮市)に還って占ったところ、天照大神、稚日女尊、事代主命、表筒男・中筒男・底筒男から神託がありそれぞれを祀るよう教えられた(それぞれ「廣田神社」「生田神社」「長田神社」そして当社の創建由緒となる。前三社の詳細は当該記事参照)。
- 表筒男・中筒男・底筒男の三神による神託の内容は「我が和魂を“大津渟中倉之長峡(オオツノヌナクラノナガオ)”に祀れ。そうすれば往来する船を守護することができる」というものであった。
「大津渟中倉之長峡」がどこであるかは諸説ありますが、凡そは当社の鎮座地(=住吉津)に比定されており、この記事が当社の創建由緒となっています。
このように住吉三神は神功皇后の三韓征伐に非常に深く関わる神として描かれています。畿内における重要な港湾だった当地(住吉津)、そして九州や朝鮮半島への中継地だった穴門山田邑と、航海上の拠点に住吉三神が祀られた点も重要です。
神功皇后の実在性および倭人による朝鮮半島への侵攻の史実性については諸説あるものの、中国吉林省に残る好太王碑の内容から四世紀から五世紀にかけて倭が朝鮮半島に侵攻したことが記される他、白村江の戦いまで朝鮮半島の南部にあった任那を通じて倭が朝鮮半島に影響力を及ぼしていたことが『日本書紀』にも記されており、何らかの歴史的事実を反映した可能性は高いと言えます。
このように古代の対外交渉が盛んに行われた時代において、航海や舟運の安全を司る神として国家的に重視されるようになったのが住吉三神だったと考えられます。その様子を神話的に体系化したのが上記の記事と言えるのでしょう。
最初に住吉三神がイザナギの禊によって海神三神と共に生まれたとされる点についても、海人族である安曇氏が祖神として祀っていた海神と同時に顕現させることで住吉三神もまた海に関する神としての神格を強化する狙いがあったのかもしれません。
住吉三神の由来
この住吉三神(表筒男・中筒男・底筒男)がどこに由来するのかは諸説あるものの有力な説はありません。
「筒男」を「津の男」の意とする説、船に祀る船霊(これを祀る部分をツツと呼ぶ例がある)とする説、対馬の豆酘(ツツ)に祀られる神に由来する説、ツツを星の意として星の神、とりわけオリオン座の三つの星に因むとする説などがありますが、いずれも想像の域を出るものでなく決め手となるものはありません。
ただ『古事記』のイザナギの禊において海神三神は「綿津見“神”」と記しているのに対して住吉三神は「筒男“命”」と使い分けられており、田中卓氏は前者は宗教的意義の神であり後者は宗教的意義を含まず人としての称であるとの説を展開しています。
この点については注目すべきであり、海神三神が安曇氏の個人的な祖神であると共に漠然とした自然神たる海の神であるのに対し、住吉三神は特に特定の氏族の祖神でなく、またしばしば白髪長髯の翁として描かれ「現人神」として見做されることが反映されているのかもしれません。
こうした点から海神のような自然神とするよりは、(どのようにして発生したかはともかく)国家的に祭祀されるべき航海の守護神であり、また人に近い存在として信じられたものと見るべきでしょう。
当社の創建と祭祀
当社の創建については神功皇后摂政十一年のこととしており、仮に神功皇后を実在の人物とすれば三世紀~四世紀頃のこととなります。
しかし古墳時代にあたるこの時代には神社としての祭祀形態は成立しておらず、恒常的な社殿が常設されるようになったのは六世紀~七世紀頃と考えられ、当社もその時期に創建したものと思われます。
ただ当社の前身として神籬等を設けて住吉三神を祀ることはより古くから行われていた可能性があり、それこそ三世紀~四世紀頃はそのように祭祀されていたのかもしれません。
当社に伝わる古文書である『住吉大社神代記』によれば、住吉三神が住みたいと欲した地は「手搓足尼(タモミノスクネ)」なる人物の地であり、神功皇后は彼を神主として住吉三神を祀らせたことを記しています。
手搓足尼(田裳見宿禰)は「津守氏」の祖であり、それ以来当社は津守氏が代々奉斎してきたとされています。『新撰姓氏録』摂津国神別に尾張宿禰と同祖、火明命の八世孫、大御日足尼の後裔であるという「津守宿禰」が登載されており、これが当該の氏族となります。
ただ上述のように住吉三神は国家的に祭祀された神であり、津守氏の祖神ではありません。『延喜式』神名帳によれば摂津国住吉郡の「大海神社」(住吉大社に隣接して鎮座)は「元名津守氏人神」とあり、津守氏の祖神はそちらで祀っていたとされています。
しかし大海神社の御祭神である「豊玉彦命」「豊玉姫命」は津守氏でなく安曇氏の祖神であり、矛盾が生じています。この点について、元々は畿内における海運の拠点として安曇氏が居住し神を祀っていたところを、後に津守氏が祭祀するようになったのかもしれません。(詳しくは「大海神社」の記事を参照)
江戸時代以降の当社
このように古くから津守氏の手によって国家的に祭祀が行われてきた当社ですが、江戸時代に入ると広く庶民からの崇敬を厚く受けるようになります。
特に航海の守護神であると信じられたことから、当時栄えていた北前船等の廻船業を営む人々や問屋関係者は、讃岐の金刀比羅宮と共に当社の神を非常に熱心に信仰しました。
今でも境内に数多く残る灯籠等は彼らによって奉納されたもので、いかに当社への崇敬が厚かったか如実に知ることができます。
廻船業が衰えてもその信仰は現代でも息づいており、航海の守護神たる神格の延長として交通安全の神としても崇敬されています。
関西では初詣の参拝者数が伏見稲荷大社と並ぶほど多い神社となっており、大阪の人々は勿論、全国各地から当社へ参詣する人が絶えません。
境内の様子
境内入口。阪堺電車の住吉鳥居前停留場のすぐ側に松の生い茂る巨大な境内があり、正面に大きな一の鳥居が西向きにドドンと建っています。
鳥居の両脇に配置されている狛犬。花崗岩製のもので胸を張った非常に堂々とした姿。
住吉大社は古代においては国家的に祭祀が行われた一方、近世以降は北前船などの発達に伴い航海や物流に携わる庶民からの崇敬を集めました。
境内に残る数々の灯籠は彼らが奉納したもので、往時の賑わいを今に伝えています。
鳥居をくぐって左右両側にそれぞれ絵馬殿が建っています。
いずれも本瓦葺の切妻造で朱塗りが施されています。
鳥居から真っすぐ進んでいくとアーチ状に大きく反った橋である「反橋」があります。
古くからの、特に中世以降の住吉大社を題材とする絵画には必ずと言って良いほど描かれるものであり、住吉大社の象徴とも言えるもの。
現在のものは慶長年間に淀君が奉納したと伝えられています。
反橋の側にも花崗岩製の狛犬が配置されています。こちらはやや俯いた姿。
反橋の架かる池。一説にかつては大阪湾の潟湖だったとも言われています。
反橋の上から境内を見下ろした様子。
反橋を降りて左側(北側)に手水舎が配置されています。
吐水は兎になっているのが特徴で、このように境内のあちこちで兎の像が置かれてあります。
これは住吉大社が卯年卯月卯日に鎮座したと伝えられることに因んだものです。
反橋から正面に進むと鮮やかな朱塗りの神門「幸寿門」が西向きに堂々と建っています。
神門の前に建つ二の鳥居は柱が角柱となっており「角鳥居」と呼ばれています。
ここをくぐればいよいよ社殿の建つ主要な空間。
神門をくぐった様子。ここが住吉大社の中心ともいえる、社殿の建ち並ぶ空間です。
社殿は四殿あり、いずれも西向き。奥側(東側)から第一本宮、第二本宮、第三本宮、そして第三本宮の右側(南側)に第四本宮があり、L字型に社殿が並んでいる形になっています。
このような社殿配置は他に類例が無く、非常に珍しいものです。
当記事では最も奥に鎮座する「第一本宮」から紹介していきます。こちらの御祭神は「底筒男命」。
一般に拝殿と呼ばれる前方の建築は当社では「幣殿」と呼ばれ、檜皮葺で平入の切妻造に唐破風と千鳥破風が付いた割拝殿形式です。
文化七年(1810年)の建立で、本殿と接続する渡殿と共に国指定重要文化財となっています。
なお第一本宮の幣殿のみ他の幣殿より大規模な桁行五間となっています。
第一本宮の後部に建つ本殿。「住吉造」と呼ばれる独特の形式で、檜皮葺で妻入の反りの無い切妻の建築。
神明造などと並んで神社形式の最も古い姿を今に伝えていると言われています。
こちらも文化七年(1810年)の建立ですが、こちらはより価値のあるものとして国宝に指定されています。
こちらは第一本宮の手前側(西側)に建つ「第二本宮」。御祭神は「中筒男命」。
第一本宮と同様、文化七年(1810年)の建築で幣殿及び渡殿は国指定重要文化財に、本殿は国宝に指定されています。
第二本宮の手前側(西側)に建つ「第三本宮」。御祭神は「表筒男命」。
神門をくぐって真っ先に目に入るのがこちらの社殿です。
こちらも同様に文化七年(1810年)の建築で、幣殿及び渡殿は国指定重要文化財に、本殿は国宝に指定されています。
第三本宮の右側(南側)に建つのが「第四本宮」。御祭神は「神功皇后」。
こちらは他の三棟と違い、本殿の上にある千木が内削ぎとなっています。
そしてやはり同様文化七年(1810年)の建築で、幣殿及び渡殿は国指定重要文化財に、本殿は国宝に指定されています。
第三本宮・第四本宮の手前両脇に鎮座するのは「矛の御社」(左側 / 北側)と「楯の御社」(右側 / 南側)。
それぞれ「経津主命」と「武甕槌命」を祀っています。
社殿の右側(南側)に「侍者(おもと)社」が鎮座。「田裳見宿禰」と「市姫命」を祀っています。田裳見宿禰は住吉大社の初代の神主で津守氏の祖となる人物です。
良縁祈願の「おもと人形」、夫婦円満の「裸雛」が供えられます。
社殿は銅板葺・平入切妻造で、左側に扉があり、この建物の中に春日造(?)の社殿が西向きに配置されています。
外見の建物はいわば拝殿と覆屋を兼ねたものと言え、社殿の建築としては珍しい形式です。
お知らせ
当社は境内社が多いため、大海神社及びその他の境内社については別記事にて紹介します。そちらも併せてご覧ください。
タマ姫
とっても大きな神社だね!社殿が四つ並んでて珍しい!
ここは初詣客が
伏見稲荷大社と並ぶほどで、関西では特に有名な神社なのよ。
トヨ姫
御朱印・御朱印帳
由緒
案内板
住吉大社御由緒
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御祭神
第一本宮 底筒男命
第二本宮 中筒男命
第三本宮 表筒男命
第四本宮 息長足姫命 神功皇后
御由緒
底筒男命 中筒男命 表筒男命の三神を総称して住吉大神と申し上げます 住吉大神の「吾が和魂をば宜しく大津渟中倉長峡に居くべし 即ち因りて往來ふ船を看む」との御神託により 神功皇后がこの地に御鎮座になりましたのが 皇后の摂政十一年辛卯の歳(西暦二一一年)と伝えられています
御神徳
住吉大神は伊弉諾尊の禊祓に際して海の中でお生れになった神様でありますから 禊祓 海上守護の御神徳を中心とし 古来産業 文化 外交 貿易の祖神と仰がれ 常に諸願成就の名社として広く普く崇敬されています
御社殿
第一本宮より第三本宮までは縦に 第四本宮は第三本宮の横に配列奉祀され 各本宮ともに本殿は住吉造として神社建築史上最も古い様式の一つで 妻入式の力強い直線形をなし 四本殿とも国宝に指定されています
由緒書
住吉大社の由緒
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御祭神
第一本宮 底筒男命 ┐
第二本宮 中筒男命 ├ 住吉大神
第三本宮 表筒男命 ┘
第四本宮 息長足姫命(神功皇后)
底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を総称して住吉大神と申し上げ、伊弉諾尊が檍原に祓除せられたとき、海の中より生れた神様です。
御鎮座
神功皇后は、新羅御出兵に当って、住吉大神の御加護を得て大いに国威を輝かせられ、御凱旋の後、大神の御神託によって此の地に御鎮祭になりました。皇后摂政十一辛卯年のことで、今から約千八百年前、のことでありました。皇后の御孫、仁徳天皇が浪速に遷都せられて墨江の津を開港せられ、後に大阪、堺の発展をもたらしましたのは、実に此の時に起因しています。
後、皇后をも併せお祀り申上げ、住吉四社大明神とあがめられ、延喜の制では名神大社に列せられ、摂津国一の宮として聞え高く、昭和二十一年まで官幣大社でありまして、全国二千余に及ぶ住吉神社の総本宮です。
御神徳
住吉大神は、禊祓の御神格をもって御出現になりましたので、禊祓の神であり、住吉祭は「おはらい」と呼ばれる程、神道でもっとも重要な「祓」のことを司る神です。また、住吉大神は、「吾が和魂をば宜しく大津の渟中倉の長峡に居さしむべし、便ち因りて往来ふ船を看護さむ」と神功皇后にお告げになった由が日本書紀、住吉大社神代記に見え、海上安全の守護神であり、奈良時代、遣唐使の発遣には、必ず朝廷より当社に奉幣があり、その海上無事を祈りました。そのほか歌神として、古来歌道の上達に志す人が当社に参籠献詠し、あるいは現実に姿を現される現人神としての信仰もあり、産業商業・文化・貿易の祖神と仰がれ住吉大神の広大な御神徳はあまねく世に知られています。
祭祀
住吉大社の夏祭り(住吉祭)は、ただ単に「おはらい」とも呼ばれ、国中の大祓を行なうお祭りです。七月三十一日、御例祭につぢき、午後五時より夏越大祓神事(大阪府指定無形文化財)が行なわれ、翌八月一日には堺宿院の頓宮に御渡があり、荒和大祓が行なわれております。そのほか踏歌神事(一月四日)白馬神事(一月七日)御結鎮神事(一月十三日)松苗神事(四月三日)卯之葉神事(五月上卯日)御田植神事(六月十四日・重要無形民俗文化財)宝之市神事(十月十七日)等の神事があります。
大社の祭祀は、千八百年来連綿と続いていますが、中でも伊勢の神宮と同じく、二十年一度の式年造替遷宮の制が、はやくも奈良時代より確実に実施せられていました。近世以降よりは、破損に従って修理する例となりましたが、遷宮の根本の制は今日にひきつがれ、来る平成二十三年は、御鎮座千八百年に当り、第四十九回式年遷宮を執り行います。
御崇敬
当社に対する御崇敬は頗る厚く、天武天皇の御奉幣をはじめ、御歴代天皇皇族の行幸、御神宝の御奉納などあいつぎ、特に後村上天皇は、戦乱の世の前後九年間、当社に行在所をおかれました。また明治天皇は明治元年及十年の両度御親拝され、昭和天皇も大正六年御参拝になり、昭和四十五年には昭和天皇、皇后両陛下お揃いで御親拝されました。
初詣の参拝者は三ケ日で二五〇万人に及び、一年を通じても家内安全・商売繁盛・初宮詣・七五三詣・交通安全・厄除など諸願成就の人が絶えません。
御社殿
御社殿は、第一本宮より第三本宮まで縦に、第四本宮は第三本宮の横に並ぶという他に例をみぬ縦並びの配置で、各本宮とも御本殿は「住吉造」と称せられる神社建築史上最古の特殊の様式で、何れも国宝に指定されています。「住吉造」というのは、丹塗・桧皮葺・直線型妻入式で切妻の力強い直線をなした御屋根に置千木と五本の四角堅魚木を備え周囲に廻廊がなく、板玉垣をめぐらし、さらにその外に荒忌垣があり、正面で「住吉鳥居」と称せられる特有の四角鳥居に接続しています。
摂末社
大海神社
山幸海幸の神話で有名な海の神豊玉彦、豊玉姫を祀り、本社についで格の高い社です。御本殿は本社と同じ形式の「住吉造」で、重要文化財に指定され、社前の「玉の井」は海神より授かった潮満珠を沈めたと伝えられています。
船玉神社
天鳥船命・猿田彦命を祀ります。天鳥船命は天上との交通、すなわち大空の船の守神であり、猿田彦命は天孫降臨の際先導を果たされた神様で、船の御霊であると同時に航空の安全を守る神として全国唯要るの信仰をうけています。
若宮八幡宮
神功皇后の御子応神天皇すなわち八幡様をお祀りし、湯立神事は有名です。
志賀神社
大海神社境内にあり、伊弉諾尊の禊祓の時、住吉三柱大神と共に生れ出で給うた底津少童命・中津少童命・表少童命をお祀りしております。
侍者社
神功皇后の命をうけて住吉大社最初の神主津守氏の祖田裳見宿祢、市姫命を祀り、縁結の神として良縁を祈願し、おもと絵馬を奉納する参拝客が多い。
楠珺社
第一本宮の裏にある樹齢約千年の楠を御神木としてお稲荷様(宇迦魂命)を祀り、商売繁盛に格別の御神徳あり、俗に”初辰さん“と称えられて毎月初の辰の日には多数の参詣で賑わい、特に四十八回の月詣りは有名です。
種貸社
苗見社とも称し、五穀の種が授かる信仰がもととなって、商売の資本を得たり、種貸人形を受けると子宝を授かる信仰があります。
大歳神社
大歳神を祀り、収穫の神であるところから集金、商売繁盛、家内安全、願望成就の御神徳があり、毎月初の辰日に祈願する人々で賑わいます。
浅沢神社
市杵島姫神を祀り、福の神、婦人の作法、芸事の守護神として崇敬されています。昔は浅沢小野「かきつばた」として世に知られた名所でした。
市戎大国社
事代主神・大国主神を祀り、商売繁盛の守護神で、市の守り神とされています。一月十日の市戎大国祭(えべっさん)は、賑々しいお祭が行われます。
名所旧跡
五所御前
第一本宮と摂社若宮八幡宮との間にあり、杉樹が石の玉垣の内に立っています。昔神功皇后が当社を御鎮祭のため社地をお定めになる時、この杉の木に鷺が三羽来て止りましたので、ここが大神の御思召のところとしてここに祀られたと伝え「高天原」とも呼ばれています。
石舞台
日本三大石舞台の一つで、舞楽を奏するところです、南門・東と西の楽所と共に慶長年間豊臣秀頼が奉納され、重要文化財に指定されています。
反橋
住吉の象徴として名高く太鼓橋とも呼ばれています。長さ二〇米、幅五・五米、高さ三・六米、現在の石の橋脚は慶長年間淀君が奉納したものが伝えられています。池の畔に川端康成「反橋」の文学碑が建っています。
誕生石
薩摩藩主島津氏の祖島津忠久誕生の処と伝えられ、島津家代々の信仰が厚く丹後局の伝説よりしてここに安産を祈るものが絶えません。
石灯籠
境内の石灯籠はすべて六百余基に達し、その形も頗る壮大なもの、優雅なものなど多く、頼山陽、池大雅、貫名海屋、篠崎小竹、五井蘭州、羽倉可亭など名家になる題字を刻んだものもあり、近世の住吉信仰を窺えます。
住吉御文庫
第一本宮の北に建つ二階建・土蔵造の御文庫で、享保八年(一七二三)に三都(大阪・京都・江戸)の書林が奉納、大阪最古の図書館として有名です。
高庫
第一本宮裏の森の中にある二棟の板校倉造で、井楼造ともいわれています。御神宝を納める庫にて、室町時代の建物と伝えられています。平成十一年(一九九九)招魂社と共に大阪府指定文化財に成りました。
『摂津名所図会』
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住吉大神杜
住吉郡にあり延喜式云住吉坐神社四座並に名神大月次相嘗新嘗
続古神祇
西の海やあはきがはらの汐路よりあらはれ出でし住吉の神
祭神 一神殿 底筒男命 二神殿 中筒男命 三神殿 表筒男命 四神殿 神功皇后
日本紀曰
伊弉諾尊、既還、乃追悔之曰、吾、前到於不須也凶目汚穢之處。故、當滌去吾身之濁穢。則往、至筑紫日向小戸橘之檍原而秡除焉、遂將盪滌身之所汚、乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱。便濯之於中瀬也、因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神、次大直日神。又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。又潛濯於潮中、因以生神、號曰表中津少童命、次中筒男命。又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。
古事記曰
底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。同巻云、天照大神之御心者亦底筒男中筒男上筒男三柱大神者成。此時其三柱大神之御名者顕也云々
同記曰
神功皇后、御船從浪。故其御船之波瀾、押騰新羅之國、既到半國。於是、其國王畏惶奏言、自今以後、隨天皇命而、爲御馬甘、毎年雙船、不乾船腹、不乾柂檝、共與天地、無退仕奉。故是、以新羅國者、定御馬甘、百濟國者、定渡屯家。爾以其御杖、衝立新羅國主之門、卽以墨江大神之荒御魂、爲國守神而祭鎭、還渡也。
古今 読人しらず 伊勢物語云むかしみかどすみよしに行幸したまひたりけるに
我見ても久しくなりぬ住吉のきしの姫松いく代へぬらん
闕疑抄云 文徳天皇大安元年正月二十八日行幸といへども国史実録にも見えず。またこの歌は文徳帝の御製といふ。これも信用しがたし。業平の歌と見るべきなり。
拾遺 我とはば神代のこともこたへなんむかしをしれるすみよしの松 恵慶法師
新古今又伊勢物語云 おほん神げぎゃうしたまひて
むつまじと君はしら波瑞籬の久しき世よりいはひ初めてき
賀茂真淵云 現形したまひてとは今の本の写誤なり。御神現礼給と古本にあるなり。礼を形にあやまれるならん。また、この歌は真淵の議論多し。伊勢物語の古意の抄に委し。
新後拾 橘の小戸の汐瀬にあらほれてむかしふりにし神ぞこの神 津守国基
拾遺 住吉にまうでて
あまくだるあら人がみのあひおひをおもへば久し住吉の松 安法法師
それこの大神は千早振る神代の御時日向国中戸の橘の檍原より現れたまひて当社の御鎮坐は神功皇后紀十一年辛卯四月二十三日とかや(帝王編年集成)。故に今に至て卯月上卯日の例祭あり。まづ四の神殿の宮造は皇后三韓御退治の時当社は軍神なれば宮造の体諸杜に混ぜずそのさまかはり三社すすむは魚鱗の備へ一社ひらくは鶴翼の囲を顕し所謂八陣の法これを住吉造といふ。四の鳥居四方に立ち瑞籬は四維に囲り摂社末社三十余前巍然として連り神人三百余家軒を双べて整々たり。詣人は陰晴を嫌ず間断なく岸の姫松蒼々として君子の操を露し神楽の音鈴の声神馬の嘶き穏やかにして四海の波風静かに国家を謐んじ社禝を輔け春の日陰うららかに和光円満の月高く照らし四所同塵の籬には随縁利物の花鎮に薫ず。抑当社の御神体に九神一神の伝といふ事あり。伊弉諾尊の心化より発りて大直日神直日八十枉津日この三神を日道三天の天日にて則天照太神なり。又底津少童中津少童表津少童この三神は月読尊にして則摂臣の塩土老翁豊玉彦猿田産の輩なり。又底筒男中筒男表筒男この三神は金気造化の神にして素盞鳥尊なり。これを一神三神三神九神九神一神と申す。この一神は則伊弉諾尊なり。この尊の心化は則右の九神なり。神代の巻の九神といふはこの事とかや。なほ深き神伝ありといへども神人秘して渉々しく語らざれは知る事能ず。
新古賀 住吉の浜の真砂をふむ鶴は久しき跡をとむるなりけり 伊勢
新拾 いくよにか神の宮居の成りぬらん古りて久しき住よしの松 為家
続後撰 後三条院の帝住吉に御幸ありける日よみ侍りける
いにしへもけふの御幸のためとてや天くだりけん住吉の神 大宰総帥伊房
新古 奉幣使すみよしに参りてむかし住みけるとまりのあれたるをよめる
住吉と思ひし宿は荒れにけり神のしるしを待つとせしまに 津守有基
同 住吉の浜松がえに風ふけば波のしらゆふかけぬまぞなき 藤原通経
新後撰 神よ神なは住吉と見そなはせわが世にたつる宮柱なり 太上天皇
住吉大神を和歌の神と称じて代々の帝鑾輅をめぐらされ行幸ある事その例少なからず。又詔して奉幣使の立たせたまふ事累世に怠らせたまはず(真淵云住吉の神を和歌の神と称ずる事上古に聞へず六百年巳来の事なりと勢語古意に書きしは辟案なり。まさしく伊弉諾尊の心化より現れたまふ御神なれば和歌の神と称ずる事神代よりの事なり)。
新古 我が道をまもらは君を守るらんよほひほゆづれ住よしの松 定家
新後撰 和歌の浦の道をは捨てぬ神なれは哀れをかけよ住吉の波 俊成
新続 あゆみをははこぼでとてもこの道をまなははまもれすみ吉の神 等持院贈太政大臣
当社を海宮といふ事神代の巻に塩土老翁彦火々出見尊に教て忽海神の宮に至りたまふ。その宮は雉堞整頓台宇玲瓏けり。前に一つの井あり。井の上に桂木あり。尊はその樹下にたたずみたまふ。一の美人あり。これ豊玉姫なり。則大海神は豊玉彦命なり。その側に彦火々出見尊塩土老翁豊玉姫一扉の社あり。桂樹は当社の神木なり。塩土老翁は即当社の再変にして彦火々出見噂に説いて海中に入れしめたまふ。その時はいまだ住吉の神名あらず。又玉出嶋龍宮の神井は海宮の門前の井を表すなり。人皇に逮んで第十代崇神天皇御宇始めて当境に降臨し住吉姫松の下に在って星霜を歴る事都て三百十七年なり。その後気長足姫尊(神功皇后)に託してこの地に跡を垂れたまひ讃嘆して真住吉国といふ。これより始て住吉の神号露れたまふ。故に預海神に契りあるに就て万国の廻船風波の安泰を祈り船の守神と祭事は神功皇后の紀に三神誨て宣ふはわが和魂は大津渟中倉の長峡に居べし。便往来船を看ると。ここにおいて神の教の隋鎮坐し奉り平らかに海を渉る事を得たるなり(日本紀)。故に船路を守りたまふ事を司りたまへば艚戸の人船佑の賈人船長楫取までも常に精心をこらし祈り奉り風波の難を避け渡海穏ならしめんとて出帆帰帆ここに詣せずといふ事なし。社頭の神灯は諸国廻船中の輩より献じ夜灯のほかげは煌々としてその光幾千の数をしらず。
御神詠 もとよりもわれはうきたる海の上波風たたは祈れ船人
万葉 住の江のいづくはふりが神ごとと行くともくとも船ははやけん 民部大輔多治真人
御神詠 伊予の国うわの浦わの魚までもわれこそはくへ罪すくふとて
いとへどもなほ住よしの浦にほす網のめしげきと詠じけん海士の呼声に網引して諸魚を神供しければこの御神詠ありとかや。又住吉と称ずる事は津国風土紀に住吉大神現れたまひて天下をめぐり住べき国を覧たまふに沼名椋長峡の前に到りこれぞ真に住べき国なりとて讃めたまふて真住吉と称じ御社を定む。今の俗これを略してただ須美乃叡といふ云々。又住吉勘文云ふ住吉と号くる事は其澄鏡より出でてまことにすみきよしといふ義なり。自銅鏡とは神代巻に伊弉諾尊宙を御すべき珍子を生まんとて左の御手に自銅鏡を持たまふ。則化出づ神を大日孁尊と謂す。右の御手に自銅鏡を持たまふ。則化出る神を月弓尊と謂す。又首をめぐらし顧眄たまふ。則化出づる神を素盞烏尊と謂すと云々。これ真住吉の始めなり。住吉は水なり。日の光清く潔きを水に譬る御事なり(住吉をすみの江とよむ事、古人の例にて万葉および古書にその例多し。近江の日吉も古事記にはひえとあり。すべて吉の字をえとよみてもよき事にもなるなり。よとえとは相通にてよい日和えい日よりといふても同じ事なり。住吉とよむ事延喜以後の事なり)。
万葉 馬のあゆみおしてとどめよ住の江のl岸のはにふににはひてゆかん 豊継
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